音の中でも人間の耳には聞こえないような高音域はデジタル化の過程でカットされてしまうんだけど、それは不要な音ではなくて身体のどこかで感じていた音なんだ。
ちょうどピカソやゴッホみたいな名画でも、必ずフレームと一体で作品として評価されるのと同じように、音楽にも耳に聞こえる音だけじゃない余白のようなものがあって、その内側にはまったものを鑑賞することで立体感を感じていたんだよな。
それにボタンひとつでピッピッって曲をスキップできちゃうから、こっちが一生懸命に曲順を考えても、なかなかその通りには聴いてもらえない。
LPレコードの時は、一番最初の曲とA面の最後の曲。それからB面にひっくり返して出だしの曲とラストの締めの曲。そういう風に意味を持たせられるところが4曲はあった。それも演出のひとつだったし、聴く方も「どうしてこの曲をここに持ってきたんだろう」って思いを巡らせながら楽しめたよね。
CDになって合理的で便利になって、ジャケットまでこんな有様になっちゃって、もうこれはアートたり得ないと愕然としたんだ。
何でも無駄を省いていけばいいってもんじゃなくて、一見無駄に見える枝葉末節の部分が個性とか芸術性を形作っているんだと思うよ。
それで思い出したけど、高校生の頃、初めて外タレのコンサートを見に行って、それがツェッペリンだったんだけど、当時の俺はそれですごい衝撃を受けたわけ。
そしてコンサートの後、一緒に行ったやつらと飯田橋の喫茶店に入って「あれはすげえなあ」なんて話し合ってたんだけど、そのうちの一人がオムライスにケチャップと間違えてタバスコをかけて食っちゃったんだよ。
で、当然そいつは大変なことになって「水くれー、水!」、俺たちは「バカだなあ、お前!大田区にはタバスコねえのかよ!」なんて大笑いしてたんだ。
それで今でもツェッペリンの話になると、必ずこのタバスコ事件を思い出す。コンサートで演奏された曲順を正確に思い出すことはできないけど、あいつが死に物狂いになっている、その光景ははっきりと覚えているよ。
もしその事件がなかったらツェッペリンの思い出も、その後数多く行ったコンサートの中のひとつに過ぎなかったかもしれない。でも、ドジな仲間のどうでもいいような思い出と結びつくことで、忘れられない強烈な思い出になっているんだろうね。
もちろん、ものを無駄にするのはよくないことだけど、人間の感性や感情まで合理化されたくないし、そんな簡単便利に扱えるものじゃないよね。