例えば、北アルプスに登るとしよう。
ある程度、登山のキャリアがあり山好きが行くこともあって、
山頂近くになると、ゴミが少ない。
モラルがしっかりしている。
すれ違うときには、見知らぬ人同士でも挨拶を交わす。
「こんにちは」「おはようございます」「お疲れさまです」——。
挨拶をすることは、どこか気持ちがいい。
それが、上から降りてきて上高地付近まで来ると、
急に挨拶が少なくなってくるのだ。
さらに下ると一般の観光客が集まっている。
いろんな人たちが混じっている。
そこで見知らぬ人同士が挨拶をすることはまずない。
そして挨拶がなくなってきたところから、
一気にゴミの量が増えてくる。
挨拶の切れ目が、ゴミの始まりなのだ。
挨拶のあるところはゴミも少なく、挨拶のないところは汚れる。
ゴミというのは人や社会の姿をはっきり映し出す鏡ともいえる。
富士山の清掃を始めてから、
以前よりも富士山が愛おしく感じられるようになった。
ゴミを拾いながらいろんな視点で富士山を見ることで、
富士山に対する想いがどんどん強くなってきた。
もっと富士山のことを知りたくなる。
山も町も同じことではないだろうか。
自分の住む町を一度ゴミを拾いながら歩いてみよう。
毎日通っている道を。
ゴミを拾いながら歩くと普段の倍以上の時間がかかる。
すると、いろんな角度からいつもと違った視点で町を見るので、
これまで気がつかなかったことが見えてくる。
自分の町の新たな風景が現れてくる。
また、表にゴミが散らかっている店は、
店内もどこか汚れている感じがしてくる。
当然のことながら、いい印象は残らないだろうし、
お客として行きたくないだろう。
店の周囲がきれいに片付いていると、当然店内もキレイだ。
「こんど、この店にきてみようかな」と思ったりする。
自分の町で新たな発見があると、
自分の町をもっと知りたいと思うようになる。
自分の町に対する見方が変わってくる。
すると、そこにゴミなんか捨てられれはずがない。
そして見知った顔の人に出会えば、自然と挨拶したくなる。
自分の町の意識と自分たちの山の意識はつながるものだ。
私の町、私の山、私の地球——とみんなが思えるようになれば、
必ずやきれいになっていくはずだ。